• 「猫の手貸します」

墓地。

つまり、お墓。

と聞くと、どんなイメージを持つだろうか。

「近くにあってほしくない」

「キモダメシの場所」

「迷惑施設」

そんな、ありがたくない言葉が出てくるのではないか。

葬祭センターと並び、
必ずといっていいほど周辺住民の猛反対の運動が起きるのが、
この「墓地」の建設にまつわる話である。

では。

自分の両親、配偶者、子ども…
人はいつかは命を失うから、
自分が生き続ければ身近な人も亡くなる。

時に、親に看取られて短い生命を終える子どももいる。

その身近で大切な人たちのお墓の場所は…。

「それなら近くでもいい」

そんな自分に気がつくのではないか。

お墓ほど、この矛盾とも言える
正反対の想いが内部で錯綜する、
こんな施設も他にないと思われる。

このお墓というもの。

必ず必要なものである。
それも誰もがどこかに必要としている。

身寄りのない人であっても
無縁仏として埋葬されるのである

これは保健衛生上、必要とされる。

しかし、先ほども述べたように
最も嫌われる施設の一つでもある。

だからなかなか近くに空きはなく、
遠いところにその場所を求めることとなる。

最近、葬式を宗教色を排して、
独自性の強い方法で執り行うケースが増えている。

これと同様、お墓の件、
つまり自分の亡骸の埋葬の方法についても、
従来の仏教的な墓石をイメージしたものから、
「自然葬」などといった
新しいスタイルを求める声が上がるようになった。

ひと月ほど前、
その自然葬を普及する運動をしている方々と懇談をした。

その時。

初めて知ったのだが、
墓地を開発できる主体が規制されているということだった。

おおざっぱに書けば、
墓地を開発できるのは、
●自治体
●宗教法人
●公益法人(財団法人を想定)
である。

個人で勝手に、例えば自宅の裏庭に、
お墓を建てるといったことは禁じられている。

結局、上記3者により所有される墓を利用することとなる。

自然葬を求める人たちは、
この規制があるため、
自分たちの意を汲む墓地を作る主体を見つけることができず、
なかなかその想いを実現できずにいる。

価値観が多様化しているこの時代。

一つの考えである自然葬のような方法にも配慮し、
規制緩和を検討してもいいのではないか。

もちろん実質的には、
都市部で住民が多数いる地域では、
なかなか理解が得られにくいが、
その点は取りあえず置いておく。

新しい姿の葬送で眠りにつきたい、
そんな想いを持つ人たちが存在している、
それも少なくない数の人たちがそう思っている、
そんなことが分かってきた。

この墓地の問題は、奥が深い。

そもそも墓地の根拠法の「墓地埋葬法」。
略してボマイホウ。

この法律ができたのは昭和23年。

保健衛生の視点から作られた法律である。
さいたま市でも担当者は保健所の職員である。

その時代、遺体の埋葬は「土葬」、
つまり、そのまま遺体を埋めていたのだ。
火葬せずに。

だから保健衛生上の問題が生じる可能性があったため、
その見地から作られたという要素が強い。

おおざっぱに作られた法律である。

その「おおざっぱさ」を補う意味で
都道府県など条例を作っている。

さいたま市も条例を独自に策定している。

その内容は、市内に墓地が開発されにくい
方面に書きかえられつつある。

住民の気持ちもわからないわけではない。

しかし繰り返すが、
墓地は私たちにとって必要な施設でもある。

市内に長く暮らしてきた市民にとって、
自分のふるさとに埋葬されたい、
という潜在的な想いは当然あるだろうし、
その遺族も、故人を大切に想ってきた人ほど、
お墓は近所にあることを望むのではないか。

現在、様々な要因から、
さいたま市に新たな墓地を造ることは、
かなり困難な状況である。

現在ある墓地を一定の条件のもとに
少しづつ拡大することは可能だが、
それをしてもキャパシティは決まっているから、
入れない人は市外の墓地に眠ることとなる。

ここで。

土葬時代に作られた法律や、
葬送の在り方や墓地の存在の位置づけなど、
新しい価値観を踏まえて、
大いに見直しのための議論を行なったらどうか。

これから団塊の世代が
介護や葬儀、葬送の当事者意識を有する時代となる。

この問題はあまりに奥が深く、
ことの解決は簡単なことではないが、
この数年間できっと大きな転換期を迎えることだろう。

私もこの問題を掘り下げていきたい。