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土井裕之のプロフィール【詳細版】2007~現在 さいたま市議選最下位。「機能する議会へ」「本筋の行政改革を」。新会派結成、新市長誕生、そして事業仕分けの実施へ。

15人立候補のうち9人定数で9位。つまり最下位当選。有権者による、私の議員活動への率直な評価だと受け止めた。むしろ、組織や団体に依存しない私の名を、わざわざ投票所に足を運んで記してくださった3573人の方々の期待に応えられるよう、気持ちを切り替えて臨んだ。「機能する議会へ」「本筋の行政改革を」―。これを行動の柱として訴えたが、これは具体的には「議会での事業仕分けの実施」を念頭に置いたものである。当選後に行財政改革特別委員会・副委員長に就任。委員長や各委員とともに議論を積み重ね、市長サイドの協力を得て、2009年4月には、思考的という条件付きの事業仕分けの実施に結びつけた。ちょうどこの頃、この頃、私の所属する無所属の会と民主党市議団との合流による、「民主党・無所属の会さいたま市議団」が結成される。議会改革・行政改革を他の誰よりも自認する政策集団の結成。2009年5月には、市政を刷新するべく新市長を擁立し、見事に清水新市長誕生に結びつけた。この選挙はまさに自分の戦いであり、総決算でもあった。扉は開いた。2010年秋。会派主催の事業仕分けの実施に向けて準備を進めている。実施されれば議会実施は、全国で3例目。私の公約も何とか果たされるということとなる。この会派により、時期統一地方選に向けて共通マニフェストを作成する方向性にある。2009年には市民生活委員会の委員長に就任。委員長職は初めてであり、他の委員に助けられながら、前例にこだわらない積極型での運営を心掛けている。2009年6月には、盆栽枯死事件が発生したが、議会の自治法98条の検査権が発動され、当委員会に付託されて、委員会を上げて検査・調査をした。結果、市長サイドに「当事者意識が欠落していた」と厳しい指摘をすることとなった。議会の変化は加速度を増している。

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土井裕之のプロフィール【詳細版】2006~2008年 明大公共政策大学院へ入学。青山やすし教授に入門。

明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科に、3期生として入学。高卒の私が大学院に行くなどとは、露ほども思っていなかった。社会人向け、それも地方議員や自治体職員、民間企業の従業員などを対象とした大学院である。2008年には、何とか卒業。大学院には、青山やすし教授(元東京都副知事)に入門するつもりで入学。現在も、教授とは、親しくお付き合いさせていただき、自治体政策における示唆を与えていただいている。毎年2回、教授とともに有志達と海外へ私的視察に出かけている。その時々のテーマを決め、現場を踏む。物事を自分の目で見ることが、いかに大切か。社会に蔓延している「常識」や「情報」を、疑ってかかることの意味を知った。大学院の入学のきっかけは、吉田太市議(当時)に誘われたことだ。吉田議員は、2003年の任期中、自ら主導し、様々な軋轢を乗り越えて、政策条例を作り上げた。所属する政党は異なるも、その見識と勇気ある行動に一目置いていた。その吉田氏から誘われるならば、と入学を決意したものだ。この大学院は、卒業後も効果が持続する。ここで得た体系的な知識、志ある仲間たちとのネットワークは、かけがえのないものである。

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土井裕之のプロフィール【詳細版】2003~2007年 議員としての壁に直面。

通算2期目。合併後は初めての任期。64人の議員が一堂に会する議会は、無所属議員にとっては、存在を示すことすら難しいものだった。かといって1期目のような自由な無手勝流のスタイルは返上すると決めていた。どんな状況であれ、まずはじっくり腰を落ち着けて、全体の奉仕者としての自覚を持った政治活動を心がけていこうと覚悟を決めた。無所属議員同士で会派を組む。政策集団としての意味を込め、議論に相当の時間を割いた。それでもこの時期は、市長派の与党的議員が過半数を占め、「ツンドラ」(永久凍土)といわれるほど、ほとんど動かない壁が存在していた。しかし、有権者への責任感から、責任ある発言を心掛けながら、目先の行動には与せず、選挙時の約束を守るべく活動を続けた。議会外の活動でカバーする側面もあった。この時期は蓄える時期、として、各種の研修には、内容本位で、時を選ばずに優先的に参加。事業仕分けに出会ったのもこの頃。「これこそ議会がやるべきことだ」そんな衝撃を受けたのは、横浜市の仕分け人として参加した時だった。明大公共政策大学院に入学したのもこの時期である。当選から一年目、公私共に支えてくれていた人と結婚。いずれにしても、この時期の私は、外での活動が主となり、当のさいたま市議会では、なかなか実績を上げることができない…そんな葛藤を抱えていた。この葛藤は、次の選挙で有権者に見透かされ、厳しい選挙の結果に結びつくのだった。

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土井裕之のプロフィール【詳細版】2003年5月 さいたま市議にトップで当選。

「説明責任を徹底して果たす」「組織・団体の支援は受けない」―これを政治姿勢として、再び立候補した。敗れても失うものはない。辞職後の立候補だったが、臆するところはなかった。こだわったのは、参加した人が意義を感じる選挙の実現。余計な行掛かりをつくらず、自由な立場で活動していくことを重視した。あくまで有権者に対する約束を提示し、それに対して支持を得るスタイルにこだわりたかった。田中秀征先生には応援の文章を頂き、3月8日には、さいたま市まで足を運んで講演をしていただいた。そんな流れで迎えた選挙。4月から政令指定都市となり、選挙区は行政区の9区に分かれた。私は実家のある「南区」からの立候補。ともかく当選第一主義ではなく、「政策決定の主体の転換」を訴えた。未熟な私の話に、真剣に耳を傾けて聞いてくれた市民の存在には胸が熱くなった。帰りがけのサラリーマンに声をかけられる。マンションの上階から、わざわざ自転車の私に手を振って応援して頂いただく。こうして選挙期間を、充実感を持って終えた。その先に当選があった。それもトップでの当選だった。いくつもの奇跡的な出来事に感動する一方、強い責任感や重圧を感じた。選挙で提示した約束を実行することへの「期待」から投じていただいた票であり、議員としての実績に乏しい私は、行動で示さなければすぐに信頼を失う立場だと考えた。

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土井裕之のプロフィール【詳細版】2001年5月~2002年4月 辞職後、再び政治の舞台を目指すまで。

華々しく見えたであろう議員辞職。しかし、その先の展望はなかった。まずは目の前の税金をどう払うか、が重要な課題だった。それまでの市民運動でお金は底をついていた。全てをリセットし、1から考えよう、そんな考えを持っていた。昼間の時間を政治の勉強に充てるため、夜中から朝までのコンビにアルバイトに従事。高卒・議員経験者では、なかなか就職先が見つからないという経験もした。一方、木をつけていたつもりだったが、議員として、いかに慢心していたのか、と反省する日々を送った。コンビ二は不況時でも生き残っているが、その陰で経営者は命を削る様相で仕事をしていた。酔った客に絡まれたり、万引きされたり、と私も犯罪に巻き込まれた。そんな生活の傍ら、いくつかの場所で合併の報告や自分の考えを述べさせていただいた。鹿児島・静岡・立教大学・黒磯・諏訪地域の議員・佐久青年会議所…等々。全国で推進される市町村合併は、各地域の自治に大きな影響を与えているようだった。この時期、自分一人で政治を1から勉強した。辞職したからといって、すぐにさいたま市議をめざす、と気持ちに整理をつけたわけではない。なぜ自分が政治に携わろうとするのか、を自問し熟考した。自分が政治家としてふさわしいのか、と。このころ小泉政権が誕生。構造改革路線を提唱する政権の誕生。硬直化した日本の政治が、大きな変化を遂げる期待感が高まった。様々な評価があるが、この政権が、政治への国民的関心を喚起したことは事実。従来の古い政治への挑戦こそ、自分の与えられた使命なのではないか、と考えを強くした。なぜ議員をめざすのか――その答えは、議会・行政そのものの構造を変えることにあると確信。これが2003年の選挙に出る決断につながった。

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