プロフィール

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さいたま市議会議員 土井 裕之

どい ひろゆき : Doi Hiroyuki

1971年浦和生まれ。大谷口幼稚園・小学校・中学校、県立川口北高校卒業。武道修業・NPO活動等を経て、1999年に浦和市議に当選。2001年合併に伴う特例に問題提起し辞職。2003年、2007年、2011年さいたま市議に当選(南区選出)。一貫して無所属であり4 期14年目。2008年、明治大学公共政策大学院卒業。明治大学校友会浦和与野地域支部幹事長。民権塾地方行政研究会(田中秀征顧問)。都市調査会副会長(青山佾代表)。空手道功武館8段範士。柔道初段。防災士。

選出区 ■さいたま市南区

所属会派 ■改革フォーラムさいたま市議団(幹事長)

所属委員会

2007-2008■環境経済委員会 ■行財政改革推進特別委員会(副委員長)

2008-2009■総合政策委員会 ■予算委員会

2009-2010■市民生活委員会(委員長)■決算委員会■議会運営委員会(理事)■予算委員会■見沼田圃将来ビジョン特別委員会

2010-2011■市民生活委員会(委員長)■議会運営委員会 ■予算委員会 ■見沼田圃将来ビジョン特別委員会

-2015■総合政策委員会■予算委員会■適正な発注制度及び人員配置に関する調査特別委員会

参加団体■民権塾 ■構想日本 ■日本自治体危機管理学会 ■NPO 法人「クリの家」サポーターズクラブ副代表 ■埼玉に夜間中学をつくる会■ Village(児童養護ほか)■このまちで暮らす会■(財)さいたま市国際交流協会■ NPO 法人水のフォルム ■さいたまNPOセンター ■(財)埼玉県生態系保護協会  ほか

1971年5月4日
浦和に生まれ、そして育つ。
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大谷口幼稚園、大谷口小学校、大谷口中学校、川口北高校をそれぞれ卒業。

2歳のときには、父の仕事の関係で半年ほどドイツに滞在したそうだ。記憶には残っていないが。

幼稚園時代から高校1年まで約10年間、柔道に励む。中学時代に初段を獲得。大谷口中学柔道部では、2年の時、主将で出場した新人戦で団体戦・60キロ以下級個人戦の2つで優勝。ロス五輪チャンピオンの山下康裕さん、修心塾(私の通った町道場)の長谷川博之先生など、柔道関係者には、人格的に優れたお手本となる方々が数多くおり、子ども時代に貴重な経験をさせていただいた。

柔道以外にも、小学生の時には、カブスカウト(ボーイスカウトの小学生版)や少年野球も経験。こうした数々の経験により、蓄膿症もちの病弱な体は、小学校卒業のころには見違えるように頑丈になった。

よく遊び、ケンカし、笑い、泣き…小学校・中学校時代は、自分の欲するままに毎日を過ごした。

1982年・1984年
「修ちゃん」「まあ君」の死に直面。命の有限性を知る。
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小学校5年生の時に幼馴染の「修ちゃん」が、6年生の時にはいとこの「まあ君」が、それぞれ亡くなった。偶然にも、同じ年齢、同じ脳腫瘍という病気。「修ちゃん」が目の前で倒れるのを何度も目の当たりにしたし、いとこの遺体には直接触れた。

目の前に現実に存在する死。これほどの「気づき」のきっかけは、未だにない。2人の死から、「人間には命が一つしかない」という命の有限性を学んだ。彼らのためにも悔いのない人生を生きていきたい、という気持ちは年々積み重なった。何十年を経た今でもそれは変わらない。

1987年〜1989年
高校時代、葛藤マグマの滞留期。
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高校時代は、柔道・ラグビーに汗を流す。1年生の途中で柔道を辞めることになり、迷路に入った。自分の立ち位置や今後の目標をなかなか見出すことができず、葛藤を抱えた時間を過ごした。いやいや、友人たちとは楽しい学生生活を送っていた。しかし、それをも凌ぐほどの、解くことのできない大きな難問が頭をよぎる。

不完全燃焼の煮え切らない思いで、高校3年生を迎えた。仲間たちが大学や予備校を目指す中、高校卒業間近、自分の人生の方向性について熟慮。結局「人と無理に合わせることはもうやめたい。自分だけの人生を生きていきたい」と大学へは行かない道を選択した。

かといって明確な手掛かりを持っていたわけではなかった。これまでのレールから飛び降りたい、という切羽詰まった気持ちだった。

この時の決断ほど大きな決断は未だにない。

1989年3月
空手道場の門を叩く。今も自分の芯にある。
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高校卒業後、アルバイトをしながら功武館で空手修行に励む。

自分の新たな人生のスタートだった。

恥ずかしながら始めた動機は、あるジャーナリストの米国留学の逸話をなぞり、筆者が「空手が役に立った」と述べていたことを鵜呑みにしたものだった。

そんなきっかけで始めた空手。つらい修行の毎日だったが、「投げ出したら自分の人生は負けだ」と、思い詰めた気持ちで稽古に打ち込む。恩師・三島功先生は甘えを許さず、厳しく接してくれた。辛さの半面、日ごとに心身ともに変化する自分に気が付く。いつしか、それは自信となり、道場に自分の居場所を見出すようになる。タイ人とのリングでの勝負は、圧倒的な敗戦。口の中は傷だらけ、焼き肉のタレが沁みた。でも、サバサバした気持ちだった。

柔道・空手と、武道の世界に接して約30年。丈夫な体と、精神的な芯を得た。「武士道」は何物にも代えがたい。戦前に世界に発信された新渡戸稲造著『武士道』に記されているが、日本の風土から誕生した武士道。仏教・儒教・神道の流れを汲んでいる。「潔さ」や「義」「勇」「仁」「礼」「誠」などの考え方には、いざという時に何度も助けられている。

現在も引き続き、5段位・師範という立場で、門下生たちと汗を流している。先人への感謝を込めて、継承者として後世につなぐ役割を担いたい。

【空手道功武館HP】http://www.oragamachi.jp/shumi_naraigoto/koubukan/index.html

【空手道場に通うお父さん】http://sports.geocities.yahoo.co.jp/gl/minhphujp

1989年〜1998年
アルバイトでかけがえのない社会勉強をする。
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「フリーター」の走りだったのかもしれない。

生活の糧を得ることが大前提だが、単なるお金を稼ぐ場、ではなく、何かに挑戦する場として職場を選んだ。空手の時間を優先しつつ、生活の糧を稼ぐための仕事をアルバイトに求めた。

高校卒業間際の「夜間の野菜の仕分け作業(夜中~朝)」にはじまり、「警備員」「コンビニ店員」「神棚の搬入・陳列」「野菜の袋詰め」「ヤッチャ場(野菜市場)での野菜の仕分け」「喫茶レストランの厨房」…。

多くの人と出会い、かけがえのない社会勉強の時間となった。

1992年〜1999年
様々な市民運動、近隣地域や都内の学習会などに積極的に参加。議員となるきっかけもここにある。
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空手修行の合間に、「自分の生きる意味」について熟考した。

突き詰めれば、「誰かのために役に立つ」ことこそ、生き甲斐だと気づく。司馬遼太郎著『竜馬がゆく』などを読んだ影響もあった。この頃は読書三昧。椎名誠、本多勝一、池波正太郎、等など何でもありの活字生活だった。

そんな個人の問題意識が、やがては外に向かうようになる。自分の想いのまま、合併問題・環境・人権・歴史認識・原発・福祉・反戦など、各種の市民運動の会合に、少しづつ参加するようになった。議員となるきっかけも、ここにある。むさぼるように勉強をした。知的好奇心がくすぐられる毎日だった。

社会問題のうち、特に核・原子力の問題に関心をもつ。振り返れば、父の出身地・広島の平和祈念館には、子どものころからかなりの頻度で足を運んでいる。

ある時、広島の祖母に聞いた。「その瞬間、おばあちゃんはどこに?」と。当時2歳の父親を背負って畑仕事をしていた時に「キノコ雲」を見た、という。もし距離や風向きが異なっていたら…他人事ではない、自分の存在に関わる深刻なことと受けとめた。こうしたことから核廃絶には、大きな関心を割いている。

いずれにしても、この時期は貧乏だったが、「空手のち市民運動のち読書時々めし」というハチャメチャな、しかし何とも充実した自己形成の時期であった。

1997年〜2001年
人生初めての一人暮らし。そこで…。
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意を決して実家を出て、アパート住まいを経験。親に与えられた恵まれた生活、を自覚した。

なんと甘えていたことだろう。

当時のアルバイト月収は約8万円。そのため「最も安い」が唯一の条件。2万7000円、風呂なし。それでも一国一城の主として、精神的な解放感は何物にも代えがたかった。

一人暮らし初日。家具を運び入れる。ひと段落して下腹部がモヨオした。トイレへ駆け込む。水洗トイレ完備。これからの生活に期待を膨らませ爽快な時間を過ごす。

ところが、その後、思わぬ事態に。

トイレットペーパーが無かったのであった…初日にして、強烈な指導を受けた。以来、議員辞職するまでの間、一人暮らしをは続いた。

現在は実家にて、妻と母と3匹の猫と暮らしている。

1999年5月〜2001年4月
合併反対を主張し浦和市議に当選。次第に葛藤を抱える。
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与野市民が行なっていた「小さな与野いいじゃないか!」の市民運動に参加。3市合併に住民投票を求める運動だったが、ここでの活動が合併問題に取り組むきっかけとなった。自分の住む浦和市でも合併問題に関心を持って取り組む。3市合併に対し、「反対」の立場で400人の請願署名を議会への提出をある議員と約束。しかし、約束は守られなかった。

議会のあり方に疑問を感じ、合併手続きへの問題提起のため、立候補を決意。告示の3週間前だった。告示前日夜まで、書類提出に時間が掛った。準備状況からして、とても当選は視野に入らない状況である。しかし、夢中で動いた。下手なマイクで訴えた。自転車に旗のスタイルで、雨の日も風の日も、浦和市内を回る。

総決算の投票日、4月25日の夜中。55人中40人定員29位。当選が決定。

以来2年間、合併問題や行政・議会の改革を中心に議員活動を続けた。大変な責任感だった。選んでいただいた以上、一人ででもやる、と無我夢中だった。

しかし次第に、内面に葛藤が生じ始めた。

自身の活動が、必ずしも全体の奉仕者である政治家としての役割に至るものではなかった。政治とは「決定」し「創る」立場に立つものだが、自分の役割は、主流の勢力に「異を唱える」ことが求められたことが大きな要因。それまで見えなかったものが、議員という立場に立たせていただいて見えてきた。

必ずしもワンテーマの実現をめざす市民運動の主張とは、同じ考えになれない溝を感じるようになった。 

1999年5月
田中秀征先生と出会う。「着眼大局 着手小局」
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市内で市民団体が主催した講演会で、田中秀征先生と出会う。

名刺交換した際に、先生が顧問を務める自治体議員の勉強会「都市政策研究会」に誘われた。以来、先生が塾頭を務める民権塾等で、先生を通じて、政治を学んでいる。

政治を志すものはまず国民・市民を信頼すること、自分の責任をまずは重視し、人のせいにしないこと、政治活動を誠実に自省すること…などの大切さを学んだ。「石橋湛山の孫弟子」を自認する先生の思想や政策は私の議員活動における基盤であり、著作は教科書である。

2003年、2007年の統一地方選挙では、応援メッセージを送っていただき、何よりの励みとなって今に至る。

【民権塾HP】http://www.shuusei.com/

2001年4月
合併時、議員の在任特例適用への問題提起で浦和市議を辞職。多くの支持者や知り合いから慰留されたが、自分が公言したことを撤回すれば、自ら政治不信を招くと考え辞表を議長に提出した。
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2001年1月、「議員の任期延長問題」を問う住民投票を求める署名運動を、事務局長としてスタート。

結果、8191筆の有効署名を獲得し、合併直前の4月12日、臨時議会開催に至った。しかし、僅差で否決される。

これを受け、公言していた約束を守るべく、2001年4月30日、議員辞職。浦和市議を全うしての辞職だった。

合併には、効果があることも認めるが、自治体名が変わるなど市民への負担もある。これを決定する議員は率先して痛みを引き受けるべきではなかったか。そもそも住民投票にもっともなじむものだと考えた。合併反対の公約も実現できなかったことも、辞職の大きな理由の一つだ。

多くの支持者や知り合いから慰留されたが、自分が公言したことを撤回すれば、自ら政治不信を招くと考え辞表を議長に提出した。

2001年5月〜2002年4月
辞職後、再び政治の舞台を目指すまで。経済的自立のため、コンビニで夜間に働く。なぜ自分が政治に携わろうとするのか、を自問し熟考した。
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華々しく見えたであろう議員辞職。しかし、その先の展望はなかった。

まずは目の前の税金をどう払うか、が重要な課題だった。

それまでの市民運動でお金は底をついていた。全てをリセットし、1から考えよう、そんな考えを持っていた。昼間の時間を政治の勉強に充てるため、夜中から朝までのコンビにアルバイトに従事。高卒・議員経験者では、なかなか就職先が見つからないという経験もした。一方、気をつけていたつもりだったが、議員として、いかに慢心していたのか、と反省する日々を送った。

コンビ二は不況時でも生き残っているが、その陰で経営者は命を削る様相で仕事をしていた。酔った客に絡まれたり、万引きされたり、と私も犯罪に巻き込まれた。

そんな生活の傍ら、いくつかの場所で合併の報告や自分の考えを述べさせていただいた。鹿児島・静岡・立教大学・黒磯・諏訪地域の議員・佐久青年会議所…等々。全国で推進される市町村合併は、各地域の自治に大きな影響を与えているようだった。

この時期、自分一人で政治を1から勉強した。辞職したからといって、すぐにさいたま市議をめざす、と気持ちに整理をつけたわけではない。なぜ自分が政治に携わろうとするのか、を自問し熟考した。自分が政治家としてふさわしいのか、と。

このころ小泉政権が誕生。構造改革路線を提唱する政権の誕生。硬直化した日本の政治が、大きな変化を遂げる期待感が高まった。様々な評価があるが、この政権が、政治への国民的関心を喚起したことは事実。従来の古い政治への挑戦こそ、自分の与えられた使命なのではないか、と考えを強くした。

なぜ議員をめざすのか――その答えは、議会・行政そのものの構造を変えることにあると確信。

これが2003年の選挙に出る決断につながった。

2003年5月
さいたま市議にトップで当選。
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「説明責任を徹底して果たす」「組織・団体の支援は受けない」―これを政治姿勢として、再び立候補した。

敗れても失うものはない。辞職後の立候補だったが、臆するところはなかった。

こだわったのは、参加した人が意義を感じる選挙の実現。余計な行掛かりをつくらず、自由な立場で活動していくことを重視した。あくまで有権者に対する約束を提示し、それに対して支持を得るスタイルにこだわりたかった。田中秀征先生には応援の文章を頂き、3月8日には、さいたま市まで足を運んで講演をしていただいた。

そんな流れで迎えた選挙。

4月から政令指定都市となり、選挙区は行政区の9区に分かれた。私は実家のある「南区」からの立候補。ともかく当選第一主義ではなく、「政策決定の主体の転換」を訴えた。未熟な私の話に、真剣に耳を傾けて聞いてくれた市民の存在には胸が熱くなった。帰りがけのサラリーマンに声をかけられる。マンションの上階から、わざわざ自転車の私に手を振って応援して頂いただく。こうして選挙期間を、充実感を持って終えた。

その先に当選があった。それもトップでの当選だった。いくつもの奇跡的な出来事に感動する一方、強い責任感や重圧を感じた。選挙で提示した約束を実行することへの「期待」から投じていただいた票であり、議員としての実績に乏しい私は、行動で示さなければすぐに信頼を失う立場だと考えた。

2003年〜2007年
議員としての壁に直面。さいたま市議通算2期目。合併後は初めての任期。
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64人の議員が一堂に会する議会は、無所属議員にとっては、存在を示すことすら難しいものだった。かといって1期目のような自由な無手勝流のスタイルは返上すると決めていた。どんな状況であれ、まずはじっくり腰を落ち着けて、全体の奉仕者としての自覚を持った政治活動を心がけていこうと覚悟を決めた。

無所属議員同士で会派を組む。政策集団としての意味を込め、議論に相当の時間を割いた。それでもこの時期は、市長派の与党的議員が過半数を占め、「ツンドラ」(永久凍土)といわれるほど、ほとんど動かない壁が存在していた。しかし、有権者への責任感から、責任ある発言を心掛けながら、目先の行動には与せず、選挙時の約束を守るべく活動を続けた。

議会外の活動でカバーする側面もあった。この時期は蓄える時期、として、各種の研修には、内容本位で、時を選ばずに優先的に参加。事業仕分けに出会ったのもこの頃。「これこそ議会がやるべきことだ」そんな衝撃を受けたのは、横浜市の仕分け人として参加した時だった。明大公共政策大学院に入学したのもこの時期である。

当選から一年目、公私共に支えてくれていた人と結婚。

いずれにしても、この時期の私は、外での活動が主となり、当のさいたま市議会では、なかなか実績を上げることができない…そんな葛藤を抱えていた。この葛藤は、次の選挙で有権者に見透かされ、厳しい選挙の結果に結びつくのだった。

2006年〜2008年
明大公共政策大学院へ入学。青山やすし教授に入門。
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明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科に、3期生として入学。

高卒の私が大学院に行くなどとは、露ほども思っていなかった。社会人向け、それも地方議員や自治体職員、民間企業の従業員などを対象とした大学院である。2008年には、何とか卒業。大学院には、青山やすし教授(元東京都副知事)に入門するつもりで入学。現在も、教授とは、親しくお付き合いさせていただき、自治体政策における示唆を与えていただいている。

毎年2回、教授とともに有志達と海外へ私的視察に出かけている。その時々のテーマを決め、現場を踏む。物事を自分の目で見ることが、いかに大切か。社会に蔓延している「常識」や「情報」を、疑ってかかることの意味を知った。

大学院の入学のきっかけは、吉田太市議(当時)に誘われたことだ。吉田議員は、2003年の任期中、自ら主導し、様々な軋轢を乗り越えて、政策条例を作り上げた。所属する政党は異なるも、その見識と勇気ある行動に一目置いていた。その吉田氏から誘われるならば、と入学を決意したものだ。

この大学院は、卒業後も効果が持続する。ここで得た体系的な知識、志ある仲間たちとのネットワークは、かけがえのないものである。

2007年〜2009年
さいたま市議選最下位。無所属で活動中。「機能する議会へ」「本筋の行政改革を」。新会派結成、新市長誕生、そして事業仕分けの実施へ。
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5人立候補のうち9人定数で9位。つまり最下位当選。有権者による、私の議員活動への率直な評価だと受け止めた。むしろ、組織や団体に依存しない私の名を、わざわざ投票所に足を運んで記してくださった3573人の方々の期待に応えられるよう、気持ちを切り替えて臨んだ。

「機能する議会へ」「本筋の行政改革を」―。

これを行動の柱として訴えたが、これは具体的には「議会での事業仕分けの実施」を念頭に置いたものである。

当選後に行財政改革特別委員会・副委員長に就任。委員長や各委員とともに議論を積み重ね、市長サイドの協力を得て、2009年4月には、思考的という条件付きの事業仕分けの実施に結びつけた。

ちょうどこの頃、この頃、私の所属する無所属の会と民主党市議団との合流による、「民主党・無所属の会さいたま市議団」が結成される。議会改革・行政改革を他の誰よりも自認する政策集団の結成。2009年5月には、市政を刷新するべく新市長を擁立し、見事に清水新市長誕生に結びつけた。

この選挙はまさに自分の戦いであり、総決算でもあった。

扉は開いた。

2010年秋。会派主催の事業仕分けの実施に向けて準備を進めている。実施されれば議会実施は、全国で3例目。私の公約も何とか果たされるということとなる。この会派により、時期統一地方選に向けて共通マニフェストを作成する方向性にある。

2009年には市民生活委員会の委員長に就任。委員長職は初めてであり、他の委員に助けられながら、前例にこだわらない積極型での運営を心掛けている。2009年6月には、盆栽枯死事件が発生したが、議会の自治法98条の検査権が発動され、当委員会に付託されて、委員会を上げて検査・調査をした。結果、市長サイドに「当事者意識が欠落していた」と厳しい指摘をすることとなった。

議会の変化は加速度を増している。

2011年~2015年
「3・11」は人生に大きな影響。決意を持って選挙に臨み4期目当選。「改革フォーラムさいたま市議団」を結成し幹事長に就任。清水市長を応援し再選。
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「3・11」は人生に大きな影響を与える出来事となった。

2011年、選挙投票日を1ヶ月後に控えたこの日。
東日本大震災が発生し、その次の日には福島原発事故が発生。
防災専門家の早坂都議とともに、発災当日に車に飛び乗り、
翌日岩沼市の沿岸に到着。一面潮の香りの水面を呆然と眺める方々を横目に人命救助に入る。
ご遺体に手を合わせ、必ず持ち場のさいたま市政に還元することを誓った。
福島原発事故では、
先の見えない避難、小さな子を持つ親たちの苦悩。
歴史的な災害と事故に遭遇し、
この教訓を胸に最優先で取り組む決意を持って選挙に臨んだ。
そして4期目の当選
その後、被災地には頻繁に足を運び、成果を議会で質すなど努めた。
新任期においては、無所属議員などが集まり
「改革フォーラムさいたま市議団」を結成し、私は幹事長に就任。
2013年5月の市長選挙では、再選を目指す清水市長を応援
行政改革など新たな時代を切り開く市政の継続を後押しした。
対する自民・公明公認の候補を、清水市長が大差で破り市政の継続となった。
この4年間は、多くの民間人から声をかけられ、社会貢献のための取り組みをともに進めてきた
直接的には「3・11」が人々の心を動かしたのだろう。行政に依存するのではなく、
自分の足で立つ気概を持って社会変革を目指す方々との共同作業に、未来の光を見た。