• 「猫の手貸します」

私は他の自治体の運営について
評価することを自重している。
他の自治体について、
とやかく言う責任を有していないからだ。
特に批判的な言動については控えたい。
しかし、あえてここでは
阿久根市政について述べたい。
鹿児島県阿久根市。
今、市長の言動に全国区で注目が集まっている。
現在進行形の事態だ。
率直に。
私は市長の言動のほとんどを評価できない。
たとえば、議会に関することは以下の通り。
●「最も辞めてもらいたい議員」
 のネット投票の呼びかけ
●議会への出席を拒否
●幹部職員に答弁拒否を命じる
●必要な施策は専決処分で進める旨の方針
●議員の報酬を日当にする専決処分
専決処分とは、
よほど議会が開会できない時に、
市長がやむを得ず決定するもの。
しかし、阿久根市では、
市長が議会招集をせず(議会招集権は市長にある)、
議会で決めるべき法定されていることを、
専決処分として次々に決定しているのだ。
何れも議会が議会自ら決すべきことであり、
または市長という二元代表制の一翼を担う
政治家の範疇外のことを執り行なっている。
議会は市民の代表機関だから、
市民への答弁を拒否していることとなる。
これらから見える市長の言動の本質は、
議会の存在自体を「否定」すること。
議会という機関は、
民主主義の代名詞のような機関だから、
議会を否定するということは、
民主主義を否定していることと同義だ。
市長は議会において、
自らの考えを堂々と披露すればいい。
議会が、まっとうな市長の言動を否定するならば、
市民が次の議員選挙において相当の判断を下すだろう。
これが議会制民主主義の流れだ。
民主主義はプロセスが大切であり、
これを省略するような乱暴なやり方はいただけない。
ただし。
ここで想像力を働かせて考えたい。
その市長に、
なぜそれほどの力が備わっているのか。
なぜこれだけの大それた行動に、
走ることができるのか。
その背景には、
議会の存在を不要と考える
多数の市民が存在していたからではないか。
その市民が市長の熱烈な応援を
しているのではないか。
私は、議会が市民の大半から
支持されていない状況が存在していたから、
だと想像している。
逆説的にいえば、
その独裁的手法の市長をして、支持されるほど、
議会が旧態依然とした体質のまま、
運営されていたと、
市民に認識されていたのではないか。
それが市民の潜在的な不要論を増長させ、
市長にとことん議会と対立することを
求めたのではないか。
現に。
単に一人で暴走できるというわけではない。
市長という立場に立つには選挙を経ている。
さらには。
市長は2度、
議会による不信任決議を採択され、
失職までしている。
しかし。
その後の出直し選挙で、
再び市民の支持を得て、
市長に返り咲いているのだ。
この再選挙においては、
議会の反市長派も候補者を立てているが、
敗れたのである。
これを持ってして、
「市民が間違っている」
というべきなのだろうか。
もしそうだとしたら、
民主主義は根底から成り立ちえない。
むしろ根本的な原因は、
一方の議会という機関に
見出されるのである。
繰り返すが、
今の市長の言動は評価できないし、
議会を否定していることは論外だ。
こうした独裁的考えの政治家が、
やりようによっては、
自らの考えでいかようにも
政治的決定を行なうことができるような、
法的な不備も垣間見える。
しかし。
その背景には、
議会という機関が、
市民の意向と大きく乖離してしまったことが、
あるのではないか。
市民は、そんな議会に
失望していたのではないか。
歴史は繰り返す。
ヒトラーの登場も日本の軍部独裁政治も、
いずれも国民の広い支持が背景にあった。
それまで虐げられていた
末端の人々の熱狂的な支持を背景にして、
政局を制していったのだ。
時の政治への批判が高まり、
相対的に極端な政治的主張に強力な支持が集まる。
独裁者の登場は、
その時の政治、
特に議会制民主主義の担い手の責任によることは、
歴史が示している。
阿久根市の独裁的手法の市長の登場も、
同じ文脈で説明できるのではないか。
今。
市長のリコール運動に
発展しているという。
阿久根市民がどんな判断を下すのか、推移を見守りたい。
最後に。このケース。
むしろ私自身が他山の石として、
自らの身を置くさいたま市議会議会について、
市民との乖離をできる限り少なくするための
教訓として捉えておきたい。
市民の批判の本質には、
自らの選挙に関係する支持者ばかりを見て、
市全体に意識を配らなくなった、
自己利益ばかりを追及する議員の集合体の議会、
ここに向けられるのだと認識している。
時代の要請に耳を傾け、
市民全体に配慮する努力を怠らない体質の議会、
機能する議会への改革を進めることが、
独裁者の登場を防ぐ近道なのだ、
と改めて考えている。